Saturday, May 13, 2006
もうひとつのレポート(?)
Attac関西グループ会員の寺本さんのレポートがattac-WSF2006ブログで読めます。
WSF2006 Karachiレポート no.1
WSF2006 Karachi レポート no.2
WSF2006 Karachi レポート no.3
WSF2006 Karachi レポート no.4
WSF2006 Karachi レポート no.5
他にもカラチWSFのレポートがありましたらリンクさせていただきたいのでお知らせください。
WSF2006 Karachiレポート no.1
WSF2006 Karachi レポート no.2
WSF2006 Karachi レポート no.3
WSF2006 Karachi レポート no.4
WSF2006 Karachi レポート no.5
他にもカラチWSFのレポートがありましたらリンクさせていただきたいのでお知らせください。
Monday, April 03, 2006
世界社会フォーラム(カラチ)を振り返って
2006年の世界社会フォーラムは、多極型フォーラムとして、ベネズエラのカラカス、マリのバマコ、そしてアジアではパキスタンのカラチで開催された。カラチのフォーラムは、昨年のパキスタン北部の地震の影響もあって開催が2ヶ月延期となるだけでなく、事前の情報が非常にすくなく、本当に開催されるのかど
うか、開催されたとしても十分な成果が挙がるのかどうかを疑問視する声をずいぶん聞いた。
わたし自身も事前の情報の少なさなど、いくつかの危惧を抱いていたが、昨年12月に香港のWTO抗議行動と連動して開かれたWSFの会合では、インドの組織委員会が積極的に支援しようという姿勢も見せており、ややぎくしゃくするところはあっても、なんとか実現にこぎつけそうだという印象をもった。しかし、それにしても大規模な地震災害からの復興もままならないであろう3月開催はあまりに早急なのではと思ったのだが、実はこれにはわけがあったようだ。パキスタンは、5月以降になると雨期に入る。高温多湿の非常に過ごしにくい季節が数ヵ月続く。こうした事情を踏まえた場合、気温がさほど高くなく過ごしやすい時期でないと野外のテントなどでのイベントが多いフォーラムの開催はまず困難になる。3月末という時期設定は、こうした気象条件も踏まえて逆算した場合のぎりぎりの日程だったといえる。
●フォーラムの動員数と財政
新聞報道では3万人という数字がでているが、労働党の書記長のファルーク・タリクが1日に語った数字は、登録者ベースで3万5千人だった。いずれの数字にせよ、不十分な準備期間であったに違いないことも考慮すれば参加人数としては成功だったといえそうだ。
しかし、これだけの参加者を得ることができて、フォーラムがすべて順調にいったということでもなさそうだ。特に財政的な収支については、赤字は免れないようで、フォーラムの主催者側にとっては、後処理と総括をめぐって議論が続く可能性もある。しかし、会場で話すことができた組織委員会のメンバーは、とくに国外からの参加者の反応が是非知りたい、率直に今回のフォーラムの問題点も話してほしいと非常に熱心に参加者の意見を聞き回っており、組織委員会はこのフォーラムを今後の動きにつなげたいようだ。
●フォーラムの討議内容についての意義と課題
今回のフォーラムは南アジアという地理的な特徴から、インド、バングラディッシュ、スリランカ、アフガニスタン、イラク、イラン、パレスチナなど、南アジアや中東地域からの参加者が多く見られた。これはすばらしいことで、他の地域のフォーラムではなかなかできないことかもしれない。特にインドからの参加者はたぶん国外の参加者ではもっとも多かったのではないかと思われる。これらの国の他、フランスがヨーロッパでは最大数で30数名が参加している。わたしの出会った人達は、このほか、ベルギー、アイルランド、ケニヤ、フィリピン、オーストラリア、中国、韓国、カナダ、カンボジア、インドネシアといった国か
らの参加者がいた。南アジア中心であることは致し方ないとは言え、アフガニスタン、イラク、イラン、パレスチナからの参加者の話を聞くことができたのは大変貴重な経験だった。
また、テーマも南アジアに固有のテーマが多かったとは言え、いくつかの点で私たちが参考にすべき論点にも出会った。たとえば...
▼原理主義について。
パキスタンは原理主義の拠点であるかのようにメディアが報じることが多く、社会フォーラムのようなイベントは実際に原理主義者からの妨害などもあるのではという危惧を私ももったが、実際にはまったく原理主義者の姿をみることはなかった。原理主義者は、911以前には、それほど大きな政治力はもっていなかったが、911以後、その力を増しつつある。911以前には、選挙の得票率も数パーセントにとどまっていた。それが最近はかなり多くの得票率をあげつつあることは確かだ。これは、軍事政権が財政破綻をきたしつつあるなかで、教育や医療サービスなどの分野で貧困層に食い込んでいる(これはハマスの場合にもいえることだ)こととも関係がありそうだ。(ちなみに、例の「風刺画」問題は、すでに「終わった」できごととなっているようだった)
原理主義者と現在のムシャラフ親米政権との関係は、単なる敵対関係ではなく、敵対する部分もありながら他方で深く結び付いている側面もあるという。原理主義者は、政府の中枢、軍部や産業界にも食い込んでいるし、バルキスタンなどの地方政府を支配している。これら原理主義の勢力の強い地域に対して、ムシャラフ政権は多額の財政支援をしている。しかも、これら原理主義勢力は、ソ連のアフガン侵攻に際して米国が育てた勢力でもあるという経緯をもっているから、左翼を敵視するという点では政府と原理主義勢力は共同の利害関係をもつ。左翼勢力は、つねに軍事政権と原理主義という二つの勢力との闘争を余儀なくされる。
こうした原理主義の位置づけは、日本の戦後右翼(まさに日本の原理主義といってもいいだろう)が冷戦期に米国に支えられ、政権政党とともに反共テロリストとして行動してきた歴史と非常によく似ている。原理主義者がかつての親米から反米へと転換した経緯をどのように理解すべきか、この点について十分な説明をうける機会をもてなかったが、少なくとも日本の右翼が「戦後」を清算してある種の反米右翼となるようなある種の世界的な条件はありうるのではないかという危惧を強く持った。
▼社会フォーラムを支えた運動環境について。
世界社会フォーラムはどこで開催されても、大きく二つの勢力がこれを支えてきた。ひとつは、左翼の政治組織や大衆団体。もうひとつはNGOと総称しうる人権、人道、環境などの問題に取り組む組織・団体である。カラチの社会フォーラムもこれら二つの勢力によって支えられたことは確実であろう。NGOについては、どこの団体が主要な役割をになったのかについて十分に把握することはできていないが、左翼の政治組織や大衆団体については、パキスタン労働党のファルーク・タリクから若干の背景となる説明を受けた。
パキスタンの左翼勢力はそれほど大きい力をもってはないが、2000年以降、急速に組織の再編統合がすすんでいるようだ。もっとも最近のこととしては、左派組織がAJT(民衆民主運動)と呼ばれる緩やかな連合を結成した。これに参加したのは、NAtional Workers Party(旧ソ連派)、Magdoor Kissan Party(農民、労働者を主体としたマオイストの政党)、パキスタン労働者戦線(労働組合主義の政党)、Awam Tehrik(民衆運動、シンド州を中心とした民族自決主義から社会主義を標榜)、パキスタン労働党(第四インターに所属する最大左翼政党)、meruji Moammed Khan Groupである。社会主義は掲げないが、反資本主義、反帝国主義でまとまった統一戦線といえる。2004年には、Progressive Youth Frontが、2003年には、National Trade Union Federationという労組のナショナルセンターが結成され、また、農民運動の全国組織であるPeasant Coordination Committeeが六つの左翼政党の参加で結成されている。さらにさかのぼって、2000年にWomen's Workes Help Line(WWHL)が、1997年にはもうひとつの労組ナショナルセンターであるPakistan Workers Confederationが結成されている。これらはいずれも左派の党派を越えた緩やかな連合組織として成り立っている。これらのゆるやかな連合を生み出した背景には、ムシャラフ政権が打ち出している民営化に対する反対運動(Anti Privatization League)の運動など、左派が連携して取り組んできた戦いの経験をふまえており、若者、女性、農民、そして労働運動というそれぞれの課題にそったある種の協力関係が急速にひろがってきている。こうした左派の超党派の連携があって初めてWSFの取り組みが可能になったといえよう。
NGOの動向は十分にはわからないのだが、会場の雰囲気からみて、集会のスタイル、テーマの設定などを含めてある種の「水と油」のようなところはある。左派の政治組織の集会は非常に威勢がよくアジテーションと会場からのシュプレヒコールで熱気を帯びる。他方でNGO関係のセミナーはむしろ私たちがよく目にす
る国際会議やセミナーの雰囲気に近い。しかし、これらが一同に介してフォーラムが開催できたところが大きな意義といっていい。左派もNGOのなかの「ラディカル」な部分を理解しており、今後の連携を模索しているように思われる。
さらに重要な論点としては、インドーパキスタン問題といった国家間の対立を越えて、多くのインドからの参加者を得たこと、さらにアフガニスタンやイラクなどからの参加者も含めてこの地域がかかえるグローバルなミリタリズムや帝国主義の課題を議論するうえで格好の場となった。残念なことに、こうした地理的な意義が世界規模でなぜか共有されず、パキスタンでの開催への関心がベネズエラやマリに比べて低かったことだ。今焦点となっているイラク、アフガンと密接にかかわるイスラム圏での開催よりも、チャベスに沸くベネズエラに関心が向くというのは、世界社会フォーラムの「お祭り」化以外のなにものでもないと思う。
●私たちの今後の課題
カラチのWSFがそれなりにさまざま課題を残しただろうとは言え、予想以上の成果をあげられた背景には、組織や運動の領域を越えてフォーラムを成功させようという主催者の大きな意志があったからにほかならない。社会フォーラムをもし東アジアで実現するということを目指すならば、地域の国家間の対立を乗り越え
る枠組と、国内の左派相互の確執や、左派とNGOとの壁を越えたゆるやかな連携がなければ難しいだろう。しかし、こうした連携は、まず社会フォーラムがあってできることではなく、現実の運動課題を通じて作られる連合や連携を基盤にする以外にないのではないかと思う。
(文:小倉利丸)
うか、開催されたとしても十分な成果が挙がるのかどうかを疑問視する声をずいぶん聞いた。
わたし自身も事前の情報の少なさなど、いくつかの危惧を抱いていたが、昨年12月に香港のWTO抗議行動と連動して開かれたWSFの会合では、インドの組織委員会が積極的に支援しようという姿勢も見せており、ややぎくしゃくするところはあっても、なんとか実現にこぎつけそうだという印象をもった。しかし、それにしても大規模な地震災害からの復興もままならないであろう3月開催はあまりに早急なのではと思ったのだが、実はこれにはわけがあったようだ。パキスタンは、5月以降になると雨期に入る。高温多湿の非常に過ごしにくい季節が数ヵ月続く。こうした事情を踏まえた場合、気温がさほど高くなく過ごしやすい時期でないと野外のテントなどでのイベントが多いフォーラムの開催はまず困難になる。3月末という時期設定は、こうした気象条件も踏まえて逆算した場合のぎりぎりの日程だったといえる。
●フォーラムの動員数と財政
新聞報道では3万人という数字がでているが、労働党の書記長のファルーク・タリクが1日に語った数字は、登録者ベースで3万5千人だった。いずれの数字にせよ、不十分な準備期間であったに違いないことも考慮すれば参加人数としては成功だったといえそうだ。
しかし、これだけの参加者を得ることができて、フォーラムがすべて順調にいったということでもなさそうだ。特に財政的な収支については、赤字は免れないようで、フォーラムの主催者側にとっては、後処理と総括をめぐって議論が続く可能性もある。しかし、会場で話すことができた組織委員会のメンバーは、とくに国外からの参加者の反応が是非知りたい、率直に今回のフォーラムの問題点も話してほしいと非常に熱心に参加者の意見を聞き回っており、組織委員会はこのフォーラムを今後の動きにつなげたいようだ。
●フォーラムの討議内容についての意義と課題
今回のフォーラムは南アジアという地理的な特徴から、インド、バングラディッシュ、スリランカ、アフガニスタン、イラク、イラン、パレスチナなど、南アジアや中東地域からの参加者が多く見られた。これはすばらしいことで、他の地域のフォーラムではなかなかできないことかもしれない。特にインドからの参加者はたぶん国外の参加者ではもっとも多かったのではないかと思われる。これらの国の他、フランスがヨーロッパでは最大数で30数名が参加している。わたしの出会った人達は、このほか、ベルギー、アイルランド、ケニヤ、フィリピン、オーストラリア、中国、韓国、カナダ、カンボジア、インドネシアといった国か
らの参加者がいた。南アジア中心であることは致し方ないとは言え、アフガニスタン、イラク、イラン、パレスチナからの参加者の話を聞くことができたのは大変貴重な経験だった。
また、テーマも南アジアに固有のテーマが多かったとは言え、いくつかの点で私たちが参考にすべき論点にも出会った。たとえば...
▼原理主義について。
パキスタンは原理主義の拠点であるかのようにメディアが報じることが多く、社会フォーラムのようなイベントは実際に原理主義者からの妨害などもあるのではという危惧を私ももったが、実際にはまったく原理主義者の姿をみることはなかった。原理主義者は、911以前には、それほど大きな政治力はもっていなかったが、911以後、その力を増しつつある。911以前には、選挙の得票率も数パーセントにとどまっていた。それが最近はかなり多くの得票率をあげつつあることは確かだ。これは、軍事政権が財政破綻をきたしつつあるなかで、教育や医療サービスなどの分野で貧困層に食い込んでいる(これはハマスの場合にもいえることだ)こととも関係がありそうだ。(ちなみに、例の「風刺画」問題は、すでに「終わった」できごととなっているようだった)
原理主義者と現在のムシャラフ親米政権との関係は、単なる敵対関係ではなく、敵対する部分もありながら他方で深く結び付いている側面もあるという。原理主義者は、政府の中枢、軍部や産業界にも食い込んでいるし、バルキスタンなどの地方政府を支配している。これら原理主義の勢力の強い地域に対して、ムシャラフ政権は多額の財政支援をしている。しかも、これら原理主義勢力は、ソ連のアフガン侵攻に際して米国が育てた勢力でもあるという経緯をもっているから、左翼を敵視するという点では政府と原理主義勢力は共同の利害関係をもつ。左翼勢力は、つねに軍事政権と原理主義という二つの勢力との闘争を余儀なくされる。
こうした原理主義の位置づけは、日本の戦後右翼(まさに日本の原理主義といってもいいだろう)が冷戦期に米国に支えられ、政権政党とともに反共テロリストとして行動してきた歴史と非常によく似ている。原理主義者がかつての親米から反米へと転換した経緯をどのように理解すべきか、この点について十分な説明をうける機会をもてなかったが、少なくとも日本の右翼が「戦後」を清算してある種の反米右翼となるようなある種の世界的な条件はありうるのではないかという危惧を強く持った。
▼社会フォーラムを支えた運動環境について。
世界社会フォーラムはどこで開催されても、大きく二つの勢力がこれを支えてきた。ひとつは、左翼の政治組織や大衆団体。もうひとつはNGOと総称しうる人権、人道、環境などの問題に取り組む組織・団体である。カラチの社会フォーラムもこれら二つの勢力によって支えられたことは確実であろう。NGOについては、どこの団体が主要な役割をになったのかについて十分に把握することはできていないが、左翼の政治組織や大衆団体については、パキスタン労働党のファルーク・タリクから若干の背景となる説明を受けた。
パキスタンの左翼勢力はそれほど大きい力をもってはないが、2000年以降、急速に組織の再編統合がすすんでいるようだ。もっとも最近のこととしては、左派組織がAJT(民衆民主運動)と呼ばれる緩やかな連合を結成した。これに参加したのは、NAtional Workers Party(旧ソ連派)、Magdoor Kissan Party(農民、労働者を主体としたマオイストの政党)、パキスタン労働者戦線(労働組合主義の政党)、Awam Tehrik(民衆運動、シンド州を中心とした民族自決主義から社会主義を標榜)、パキスタン労働党(第四インターに所属する最大左翼政党)、meruji Moammed Khan Groupである。社会主義は掲げないが、反資本主義、反帝国主義でまとまった統一戦線といえる。2004年には、Progressive Youth Frontが、2003年には、National Trade Union Federationという労組のナショナルセンターが結成され、また、農民運動の全国組織であるPeasant Coordination Committeeが六つの左翼政党の参加で結成されている。さらにさかのぼって、2000年にWomen's Workes Help Line(WWHL)が、1997年にはもうひとつの労組ナショナルセンターであるPakistan Workers Confederationが結成されている。これらはいずれも左派の党派を越えた緩やかな連合組織として成り立っている。これらのゆるやかな連合を生み出した背景には、ムシャラフ政権が打ち出している民営化に対する反対運動(Anti Privatization League)の運動など、左派が連携して取り組んできた戦いの経験をふまえており、若者、女性、農民、そして労働運動というそれぞれの課題にそったある種の協力関係が急速にひろがってきている。こうした左派の超党派の連携があって初めてWSFの取り組みが可能になったといえよう。
NGOの動向は十分にはわからないのだが、会場の雰囲気からみて、集会のスタイル、テーマの設定などを含めてある種の「水と油」のようなところはある。左派の政治組織の集会は非常に威勢がよくアジテーションと会場からのシュプレヒコールで熱気を帯びる。他方でNGO関係のセミナーはむしろ私たちがよく目にす
る国際会議やセミナーの雰囲気に近い。しかし、これらが一同に介してフォーラムが開催できたところが大きな意義といっていい。左派もNGOのなかの「ラディカル」な部分を理解しており、今後の連携を模索しているように思われる。
さらに重要な論点としては、インドーパキスタン問題といった国家間の対立を越えて、多くのインドからの参加者を得たこと、さらにアフガニスタンやイラクなどからの参加者も含めてこの地域がかかえるグローバルなミリタリズムや帝国主義の課題を議論するうえで格好の場となった。残念なことに、こうした地理的な意義が世界規模でなぜか共有されず、パキスタンでの開催への関心がベネズエラやマリに比べて低かったことだ。今焦点となっているイラク、アフガンと密接にかかわるイスラム圏での開催よりも、チャベスに沸くベネズエラに関心が向くというのは、世界社会フォーラムの「お祭り」化以外のなにものでもないと思う。
●私たちの今後の課題
カラチのWSFがそれなりにさまざま課題を残しただろうとは言え、予想以上の成果をあげられた背景には、組織や運動の領域を越えてフォーラムを成功させようという主催者の大きな意志があったからにほかならない。社会フォーラムをもし東アジアで実現するということを目指すならば、地域の国家間の対立を乗り越え
る枠組と、国内の左派相互の確執や、左派とNGOとの壁を越えたゆるやかな連携がなければ難しいだろう。しかし、こうした連携は、まず社会フォーラムがあってできることではなく、現実の運動課題を通じて作られる連合や連携を基盤にする以外にないのではないかと思う。
(文:小倉利丸)
Thursday, March 30, 2006
来てほしかった震災支援経験のNGO ――日本への期待が失望に… 参加者増が私たちの課題
震災後の支援を行った経験のあるNGOは来ていないのか?」-会期中、日本から参加した私たちに、多くの人たちから、何度もこういう質問を受けた。「地震や津波の専門家は来ていないのか?」とも…。
しかし、今回のWSFには、日本からはNGO関係者も地震の専門家も来ていなかったようである。それを告げると、私たちに話しかけた参加者の何人かは、率直に残念さや失望を表した。
▽災害復興への支援を期待
今回のWSFで日本への期待を最も強く感じたのは、地震や津波などの大規模災害後の復興についてだった。今回の参加者の大多数は南アジアからの参加者であり、この地域は一昨年のスマトラ沖地震、津波の被害国だ。また、開催地のパキスタンは昨年の暮れに大きな地震が起こり、数万人の死者と家屋損壊など多大な被害が出た。そうしたことを考えれば、阪神大震災や新潟中越地震を経験した日本への期待が高まるのは当然といえるだろう。
▽もっと参加を
そもそも、今回のWSFへの日本からの参加者は非常に少ない。ぼくの把握している限りでは、日本からの参加者は、WSF日本連絡会事務局やATTAC関西などから5人、パキスタン・ラホールに留学中の大学院生が1人、デリーからの赤旗記者が1人の合計7人だ。
WSFがパキスタンで開催されたことの意義を考えれば、パキスタン地震後に現地入りしたNGO(ピースボートやJVCなど)や、原水禁や原水協などの反核団体などの参加があれば良かったと思う。
また、アフガニスタンやイランに国境を接し、イラクとも地理的に近いパキスタンで開催されたことを考えれば、World Peace Now やその構成団体など、反戦運動に取り組んできた団体からの参加がほとんどなかったことも残念だ。
03年、04年を除けば、日本からのWSF参加者は非常に少ないのが現状だ。
今回のWSFカラチは、アジアで開催されたにもかかわらず、あまりにも日本からの参加者が少なかった。
WSF日本連絡会として、次回以降のWSFの開催前には、国内の多くの団体、個人に幅広く参加を呼びかけ、WSFに参加してもらいたい人々が少しでも参加してもらえるようにする工夫が必要だと強く感じる。次回への大きな課題だ。
(WSF日本連絡会・そんぴゅん)
しかし、今回のWSFには、日本からはNGO関係者も地震の専門家も来ていなかったようである。それを告げると、私たちに話しかけた参加者の何人かは、率直に残念さや失望を表した。
▽災害復興への支援を期待
今回のWSFで日本への期待を最も強く感じたのは、地震や津波などの大規模災害後の復興についてだった。今回の参加者の大多数は南アジアからの参加者であり、この地域は一昨年のスマトラ沖地震、津波の被害国だ。また、開催地のパキスタンは昨年の暮れに大きな地震が起こり、数万人の死者と家屋損壊など多大な被害が出た。そうしたことを考えれば、阪神大震災や新潟中越地震を経験した日本への期待が高まるのは当然といえるだろう。
▽もっと参加を
そもそも、今回のWSFへの日本からの参加者は非常に少ない。ぼくの把握している限りでは、日本からの参加者は、WSF日本連絡会事務局やATTAC関西などから5人、パキスタン・ラホールに留学中の大学院生が1人、デリーからの赤旗記者が1人の合計7人だ。
WSFがパキスタンで開催されたことの意義を考えれば、パキスタン地震後に現地入りしたNGO(ピースボートやJVCなど)や、原水禁や原水協などの反核団体などの参加があれば良かったと思う。
また、アフガニスタンやイランに国境を接し、イラクとも地理的に近いパキスタンで開催されたことを考えれば、World Peace Now やその構成団体など、反戦運動に取り組んできた団体からの参加がほとんどなかったことも残念だ。
03年、04年を除けば、日本からのWSF参加者は非常に少ないのが現状だ。
今回のWSFカラチは、アジアで開催されたにもかかわらず、あまりにも日本からの参加者が少なかった。
WSF日本連絡会として、次回以降のWSFの開催前には、国内の多くの団体、個人に幅広く参加を呼びかけ、WSFに参加してもらいたい人々が少しでも参加してもらえるようにする工夫が必要だと強く感じる。次回への大きな課題だ。
(WSF日本連絡会・そんぴゅん)
「WSFカラチ」が閉幕 ――スピーカーは現地調達、混沌に救い ――痛感させられた日本の状況
(写真:閉会式)
24日からパキスタンのカラチで開かれていた「世界社会フォーラム(WSF)2006カラチ」は、29日昼、閉会式を行って閉幕した。
閉会式では、各国からの参加者のメッセージと、バルキスタン、パレスチナなど各地の音楽などのパフォーマンスが行われ、最後ステージで再開を約束して手を取り合った。
今回のWSFは、全体としてなかなか混沌とした運営で、なにごとにもきちんとしていないと済まない日本的な感覚からすればけしからんことの連続かもしれないが、私には、この「いい加減さ」が、日頃の窮屈な時間の感覚から解放してくれ、救われた思いだった。これだけいい加減でも、確かにキャンセルされたものも多かったが、セミナーやワークショップが行われ、参加者の多くは満足しているようだった。
面白かったのは、スピーカーの現地調達方式だ。何げなく入った会場で、突然何の前触れもなく、何者であるかも質問もせず、突然ひな壇にあげられて、名刺を見ながら適当に紹介され、話す方も適当にスピーチする。これは私だけでなく、日本からきた皆が多かれ少なかれ経験したことのようだった。これは結構「遊牧民的な歓待の方法」かもしれないとも思ったが、どうなのだろうか。
私たちなら、見知らぬ人間への懐疑心が先に立ち、突然あたかもセミナーの主催者が招待したかのような発言者に指名するようなことはしないだろう。しかし、こうした方式はオープンで多様な議論を促すWSFにとってはむしろ好ましいことなのかもしれない。
わたしたちが何気なく参加しているこのWSFのイベントもパキスタン側にとっては画期的なこととして受け止められている。パキスタン人民党の人の話では、「この半世紀、反政府を率直に主張するような集会がこれだけ堂々と開かれることはなかった」という。今回のフォーラムでも大きな組織課題であったと思う。政党とNGOとは同床異夢的なところがないとはいえない微妙な連携だったと思うが、それでも今後へ向けた基調な前進であったと思う。
言い替えれば、政党系列の大衆組織でもなく、NGOでもない、という第三の民衆運動がもっと大きな力を持つことが必要なのかもしれないと改めて感じた。このWSFからどのようなオルタナティブの可能性が引き出せるか、そのためには、礼賛だけではなく、WSFが多くの難問を抱えていることもきちんと自覚しておく必要があるだろう。
参加者の何人かと話していて、日本への関心でもっとも大きかったのは、アジア開発銀行が実施していている開発援助にもっと日本国内でも反対運動を展開してほしいという声だった。日本の経済援助が貧困と搾取と密接に関わっているということについては、日本の国内でも多くの運動があるが、まだまだ当事者にとっては見えにくいものようだ。
今回のWSFは見た目は南アジア中心のテーマが多かったが、しかし私たちにとっても考えさせられる共通の課題としてとらえ返せる課題ばかりだった。インドとパキスタンの問題は、日本と北朝鮮の問題に、宗教原理主義の問題は日本のナショナリズムの問題に、そして米軍基地や核の問題はまさにそれじたいが日本の問題でもある。
(文・写真:小倉 利丸)
農民、労働者、左翼の連帯広がる ――「もう一つの社会主義」も2つの集会から実感
写真説明:午前に行われた農民集会(上)/漁民たちのブース。会場でももっとも凝ったブースだった。(下)
28日、「パキスタンの農民運動」と、「オルタナティブとしての社会主義」の2つのセミナーに参加した。ともに、パキスタンの運動が中心だが、軍事政権への反対組織。いずれも大きな意義を持っていた。
▽軍と宗教原理主義は労働運動の敵
午前中開かれた農民運動のセミナーは、パキスタン各地の農民団体が集まった。
集会の後で、パキスタン労働党のファルーク・タリクさんに、アタックの寺本さんがインタビューするのにつき合ったが、タリクさんは「ムンバイのWSFと同様、このWSFを通じて、政党系列の大衆運動とラディカルなNGOなどの社会運動がつながることができた意義は大きい」と述べていた。
ちょうどこのWSFの直前にパキスタンのいくつかの左翼政党が緩やかな連合戦線を結成。これまでも、農民運動、漁民運動、反民営化運動、反戦運動などの分野で党派間のゆるやかなつながりができており、これが、大きなきっかけとなっているという。タリクさんによれば、「パキスタンの労働運動は、軍による弾圧と宗教原理主義による組織の乗っ取りというふたつの敵と闘わなければならない」という。政府と原理主義者との対立ばかりが伝えられるが、状況は複雑だというわけだ。
▽左翼政党から学生グループまで
午後の「オルタナティブとしての社会主義」のセミナーでは、前日の「反グローバル化」とほぼ重なる発言者で労働党が事実上の主催。しかし、国外からの発言者やパキスタン共産党もパネラーに参加していた。
ウルドゥ語でわからないところも多々あるのだが、パキスタン最大の左翼政党、パキスタン労働党を始めとして、左翼政党の多くが、かつてのソ連型の社会主義ではない「オルタナティブとしての社会主義」を主張することで、少なからぬ支持者を得ている。トロツキーへの言及を聞くこともしばしば。オーストラリアからの参加者は「労働組合の幹部が、社会主義を口にするなんていうことはオーストラリアではまずない」と感動していたが、日本も同様だ。
会場にやってきたのは、労働組合や左翼諸政党、NGOだけではない。パキスタンの南西部のもっとも貧困だが天然資源が豊富といわれるバルキスタン州からやってきた、パキスタンからの自立を求める学生グループは、会場で積極的にビラをまき、集会をしている。 バルキスタンは、タリバンやアルカイダが拠点にしている「部族」支配が強い地域といわれて、政府の武力的な弾圧が厳しく、多くの人々が犠牲になっている。パキスタン軍に拉致されたバルキスタンの反政府活動家の母親たちや、パキスタン当局に捕らえられた人達の親族などが、会場入口の広場でハンストを行っている。ハンストとは、イスラムの断食と同じ意味で使われるようで、皆数ヵ月も断食しているという。
▽ジェンダーへの取り組みに不満
WSFカラチは全てが絶賛できることばかりではない。会場の広場で「1000平和女性計画」(1000Peace Women Project)のポスターを掲げている女性グループがいた。彼女たちに今回のWSFについて感想を聞いてみたが、実は彼女たちは、このWSFには参加しておらず昨日の会場内デモと今日の路上出店だけしかやらないという。そして、パキスタンの主要な女性団体は今回のWSFをボイコットしてたという。
理由は、ジェンダー問題へのパキスタン社会フォーラムの取り組みがまったく不十分だということにあるという。テーマの設定から会場の割り当てに至るまで、全てにおいて納得がいかない、ということだった。
(文・写真:小倉 利丸)
Tuesday, March 28, 2006
さまざまな参加者たち
閉会式を残すのみになった世界社会フォーラム(カラチ)は昨年末の地震に代表される数々の問題を抱えている状況を考えれば、驚くほどの盛り上がりを見せている。入り口でこそテロを警戒した厳しい警備が続くが、原理主義勢力との距離を取ろうとしているムシャラフ政権が社会フォーラムへのバックアップを約束していることもあり、会場やその周辺の雰囲気は整然としている。インドほどはメディアが発達していないこともあって、市民への認知度は今ひとつという印象も受けるが、この集まりについて知っている市民の反応は極めて良好である。警備の警官たちもパキスタン人のご多分に漏れず極めて友好的で、記念写真を求められることも多い。どこの国でも警官というのは写真に撮られることを嫌うものだ、という常識に縛られていると驚くことになる。
穏やかな雰囲気は、この国が現在も軍事政権体制を維持する国家であることを忘れさせかねないが、笑顔の警官のすぐそばで、国軍に息子を連れ去られて今も行方不明という家族が講義活動を展開している様子にはいささかの困惑を感じさせずにはおかない。ムシャラフ政権がこのイベントを単なる政治的「ガス抜き」以上のものにならないと予想していると言うことかも知れないが、国内の政治弾圧に対する抗議のアピールも、各種の政治・民族団体によって行われているにも関わらず、会場の雰囲気は驚くほど穏やかである。
また、パキスタン政府と協力して大規模な開発を進める中国に対してのけん制のために、漁業組合などにアメリカが支援を行うという一種のねじれ現象があり、そのことが市民の活発な講義活動につながっているという噂もあり、事態は複雑である。
考えてみれば、「パキスタン」で社会フォーラムを行うということは、スリランカの内戦と津波、パキスタンの地震、イラクとアフガンの戦争、インドの宗教対立、パレスティナ問題、印パおよびイランの核開発問題など、ここ何年かで起こった世界的問題のうち、かなりの割合を取り扱うと言うことである。南アジアから中東にかけては、「テロとの戦争」と名付けられた、米ブッシュ政権が莫大な予算を投じる国際戦略の中心地であり、同時にテロ以上の脅威である自然災害に対して、貧困国はあまりに弱く、また国際的な支援体制も整っていないことが露呈した地域でもある。
今回のフォーラムの一つの収穫は、津波や地震に対して、現地のNGOが取った極めて多様な戦略についての報告を聞き、多くの出版された資料を入手することが出来たことである。例えば、いくつかのNGOの連合体による出版物、特に災害時のメディアのあり方を論じた"Disaster Communication: A Resource Toolkit for Media"(Amjad Bhatti他 A Duryog Nivaran Publication 2002)や、復興に際するジェンダーの問題を特に論じた"Gender Dimensions in Disaster Management"(Madhavi Malalgoda Ariyabandu他 ITDG South Asia Publication 2003)といったスリランカの出版物は、日本でも学べるところの多い成果であると思われる。また、被災地で活動するNGOからの率直な見解として、欧州や中東諸国に比べて、パキスタン地震に対する日本を含めた東アジアの支援は、あまり目立ったものではなかったという声も聞くことが出来た。
参加者の中には、辺境部からの参加者も多く、その多くは自分たちの人権が守られていないことを訴え、憲法上の権利か独立が必要だと訴える。アクション・エイドの支援で活動している地元NGOのメンバーだというバルチスタンの青年は、やはりアクション・エイドからの要請でこのフォーラムに参加したという。彼は、国際社会が自分たちのことをテロリストの集まりであるかのように言うが、実際は「悲しいほど後進的」な地域であり、貧困に加えてパキスタン政府軍による弾圧もあり、非常に厳しい状態におかれている善良な人々が住む地域であることを訴えた。真実を見るためにフォーラム後にバルチスタンに招待したいという申し出も受けたが、これは日程の都合で達成できそうにはない。しかし、いつか再びパキスタンを訪れる機会があれば、その時は是非、彼らの活動する地域をこの目で見てみたいと思う。
また逆に、パキスタンの先進地域で富裕な穀倉地帯でもあるパンジャブ州でも、奴隷労働が深刻な問題になっていることも随所でレポートされている。フォーラムに参加するNGOには、これらの奴隷労働を余儀なくされた人々が逃げ込むためのシェルターを運営している団体も含まれる。
こうした、自助努力のためのNGOが増えており、先進国のNGOは直接的な活動ではなく後方支援に回ることが多くなってきているのは近年の傾向である。ネパールからの参加者も、自信が低カーストに分類される楽士カーストの出身者で、被差別階層の集まりである世界尊厳フォーラムの会合に参加するために参加している活動家は、一族の子どもたちの教育のために、日欧の音楽家と制作したCDを販売している。この活動家は、陸路をインド経由で4日かけてカラチに到着したという。国際経験が豊かな音楽家でもある彼は、インドでは娯楽産業大国である音楽が商業的にも成功することで楽士の社会的な地位も上がり、また教育にお金を費やせることによってその階層の教育レベルもあがっていくが、そういった産業に乏しいネパールでは、低カーストである楽士カーストが困難な状況を抜け出ることが難しい、と述べた。実はこういった見解は、グローバリゼーションによって成功した階層もあるということを述べているとも解釈できるわけで、社会フォーラムの理念からはいささか逆行していると見なせなくもないが、そういった多様性を許容するのが社会フォーラムの良さである。
インドとパキスタンの関係は、雪解けムードと言われながらも現在も緊張をはらんだものである。今回も、多くの参加者にヴィザが発行されず、それが原因でキャンセルされた会議も多かった。しかし、過去数十年考えられなかった数のヴィザが発行されたこともまた事実である。
以前からの知り合いであるイスラム系のインド人に出会った。有名なNGOのメンバーでもある彼は、初めてヴィザが発行されたこの機会を利用してパキスタンの親族を訪ねることを楽しみにしていた。インド・パキスタンの分離独立に際して、多くのイスラム教徒がパキスタンにわたり、パキスタンのヒンドゥ教徒はインドにわたった。その大規模な移住のプロセスでの混乱は、数多くの犠牲者を生んだことはよく知られている。その分断がまだ続いているという事実は見過ごされがちであるが、社会フォーラムの開催が両国とその国民の間に横たわる亀裂を多少は埋めることになったことには、一つの意義を見いだして良いかもしれない。
カラチでは、バマコ(マリ)やカラカス(ベネズエラ)での世界社会フォーラムと異なり、歴史の転換点に居合わせた、という感動は得られない一方、南アジア地域に根付いた社会運動の成長を実感できるものとなったと言えよう。一方で、日本という国家に対する高い期待とその不在への失望を率直に口にするパキスタンの人々から、冷戦構造を残す東アジアでの下からの連帯運動をどう進めていけば彼らに答えられるのか、という非常に大きな宿題を受け取ることにもなった。
穏やかな雰囲気は、この国が現在も軍事政権体制を維持する国家であることを忘れさせかねないが、笑顔の警官のすぐそばで、国軍に息子を連れ去られて今も行方不明という家族が講義活動を展開している様子にはいささかの困惑を感じさせずにはおかない。ムシャラフ政権がこのイベントを単なる政治的「ガス抜き」以上のものにならないと予想していると言うことかも知れないが、国内の政治弾圧に対する抗議のアピールも、各種の政治・民族団体によって行われているにも関わらず、会場の雰囲気は驚くほど穏やかである。
また、パキスタン政府と協力して大規模な開発を進める中国に対してのけん制のために、漁業組合などにアメリカが支援を行うという一種のねじれ現象があり、そのことが市民の活発な講義活動につながっているという噂もあり、事態は複雑である。
考えてみれば、「パキスタン」で社会フォーラムを行うということは、スリランカの内戦と津波、パキスタンの地震、イラクとアフガンの戦争、インドの宗教対立、パレスティナ問題、印パおよびイランの核開発問題など、ここ何年かで起こった世界的問題のうち、かなりの割合を取り扱うと言うことである。南アジアから中東にかけては、「テロとの戦争」と名付けられた、米ブッシュ政権が莫大な予算を投じる国際戦略の中心地であり、同時にテロ以上の脅威である自然災害に対して、貧困国はあまりに弱く、また国際的な支援体制も整っていないことが露呈した地域でもある。
今回のフォーラムの一つの収穫は、津波や地震に対して、現地のNGOが取った極めて多様な戦略についての報告を聞き、多くの出版された資料を入手することが出来たことである。例えば、いくつかのNGOの連合体による出版物、特に災害時のメディアのあり方を論じた"Disaster Communication: A Resource Toolkit for Media"(Amjad Bhatti他 A Duryog Nivaran Publication 2002)や、復興に際するジェンダーの問題を特に論じた"Gender Dimensions in Disaster Management"(Madhavi Malalgoda Ariyabandu他 ITDG South Asia Publication 2003)といったスリランカの出版物は、日本でも学べるところの多い成果であると思われる。また、被災地で活動するNGOからの率直な見解として、欧州や中東諸国に比べて、パキスタン地震に対する日本を含めた東アジアの支援は、あまり目立ったものではなかったという声も聞くことが出来た。
参加者の中には、辺境部からの参加者も多く、その多くは自分たちの人権が守られていないことを訴え、憲法上の権利か独立が必要だと訴える。アクション・エイドの支援で活動している地元NGOのメンバーだというバルチスタンの青年は、やはりアクション・エイドからの要請でこのフォーラムに参加したという。彼は、国際社会が自分たちのことをテロリストの集まりであるかのように言うが、実際は「悲しいほど後進的」な地域であり、貧困に加えてパキスタン政府軍による弾圧もあり、非常に厳しい状態におかれている善良な人々が住む地域であることを訴えた。真実を見るためにフォーラム後にバルチスタンに招待したいという申し出も受けたが、これは日程の都合で達成できそうにはない。しかし、いつか再びパキスタンを訪れる機会があれば、その時は是非、彼らの活動する地域をこの目で見てみたいと思う。
また逆に、パキスタンの先進地域で富裕な穀倉地帯でもあるパンジャブ州でも、奴隷労働が深刻な問題になっていることも随所でレポートされている。フォーラムに参加するNGOには、これらの奴隷労働を余儀なくされた人々が逃げ込むためのシェルターを運営している団体も含まれる。
こうした、自助努力のためのNGOが増えており、先進国のNGOは直接的な活動ではなく後方支援に回ることが多くなってきているのは近年の傾向である。ネパールからの参加者も、自信が低カーストに分類される楽士カーストの出身者で、被差別階層の集まりである世界尊厳フォーラムの会合に参加するために参加している活動家は、一族の子どもたちの教育のために、日欧の音楽家と制作したCDを販売している。この活動家は、陸路をインド経由で4日かけてカラチに到着したという。国際経験が豊かな音楽家でもある彼は、インドでは娯楽産業大国である音楽が商業的にも成功することで楽士の社会的な地位も上がり、また教育にお金を費やせることによってその階層の教育レベルもあがっていくが、そういった産業に乏しいネパールでは、低カーストである楽士カーストが困難な状況を抜け出ることが難しい、と述べた。実はこういった見解は、グローバリゼーションによって成功した階層もあるということを述べているとも解釈できるわけで、社会フォーラムの理念からはいささか逆行していると見なせなくもないが、そういった多様性を許容するのが社会フォーラムの良さである。
インドとパキスタンの関係は、雪解けムードと言われながらも現在も緊張をはらんだものである。今回も、多くの参加者にヴィザが発行されず、それが原因でキャンセルされた会議も多かった。しかし、過去数十年考えられなかった数のヴィザが発行されたこともまた事実である。
以前からの知り合いであるイスラム系のインド人に出会った。有名なNGOのメンバーでもある彼は、初めてヴィザが発行されたこの機会を利用してパキスタンの親族を訪ねることを楽しみにしていた。インド・パキスタンの分離独立に際して、多くのイスラム教徒がパキスタンにわたり、パキスタンのヒンドゥ教徒はインドにわたった。その大規模な移住のプロセスでの混乱は、数多くの犠牲者を生んだことはよく知られている。その分断がまだ続いているという事実は見過ごされがちであるが、社会フォーラムの開催が両国とその国民の間に横たわる亀裂を多少は埋めることになったことには、一つの意義を見いだして良いかもしれない。
カラチでは、バマコ(マリ)やカラカス(ベネズエラ)での世界社会フォーラムと異なり、歴史の転換点に居合わせた、という感動は得られない一方、南アジア地域に根付いた社会運動の成長を実感できるものとなったと言えよう。一方で、日本という国家に対する高い期待とその不在への失望を率直に口にするパキスタンの人々から、冷戦構造を残す東アジアでの下からの連帯運動をどう進めていけば彼らに答えられるのか、という非常に大きな宿題を受け取ることにもなった。
NGOは大丈夫か? ――「グローバル化」「帝国主義」で議論
(写真 セミナー「グローバル化と反グローバル化」集会)
WSFカラチの集会で、27日夜、「グローバル化と反グローバル化」のセミナーが開かれた。主催はLanour Education Foundation。ベルギー、カンボジア、パキスタン、フランスなどからの参加者が発言した。
▽市民社会とNGO利用する世銀、IMF
カンボジアから来たロザーナという女性は、社会主義政権崩壊後、第三世界のなかで最初の国連主導による国家の再建が行われた国が抱える問題を指摘した。
ロザーナさんによると、国連主導で多くの外部資金が導入され、いわゆる市民社会とよばれる環境が作られ、多くのNGOが生まれた。しかし、これらの市民社会やNGOを世界銀行やIMFが利用されて、現在の帝国主義に巧妙に統合されてしまっている、という。ロザーナさんは「その結果として、カンボジアの再建は、労働者や女性、貧困層をないがしろにする結果になっている」と指摘した。彼女は、「これは『グローバル化』ではなく、『帝国主義』と言うべきだ」と述べた。
▽求められる「新しい社会主義」
「市民社会」やNGOが第三世界で果たしてきた役割が、いま、多くの国の活動家から問われ始めている。西側からの資金や人々を近代化にあわせて草の根レベルから組織し、それをグローバルな新自由主義の枠組に組み込む仕組みが生まれてきているからだ。
貧困対策とはいっても、市場経済の効率性や収益原理に対抗できる政治・経済の全体の体制的な理念を「市民社会」は持ちえているわけではない。カンボジアはポルポト政権=社会主義という印象が強い国だが、ロザーナさんは「かつての社会主義とは異なる社会主義が必要だ」とはっきり指摘した。
▽フォーラム運動の意義
また、WSFの創設に関わってきたフランスのピエール・ルッセは、現在の社会フォーラム運動の意義について「自分の活動家の長い経験のなかでも特筆すべきものだ」と強調した。
彼は59歳。ちょうど68年世代だ。ルッセは、「1968年のフランスの大きな社会反乱は、学生が主体であったとすれば、現在の世界規模の反グローバル化の運動は、労働者、女性、少数民族など非常に広範な人々が主体となって表れている。このことは、68年と比べても、明らかに運動の民衆の中への根づきか
たが違う」と述べた。
さらに、ルッセの発言で印象深かったのは、「社会フォーラムが南アジアで果たすべき役割は、インドとパキスタンの民衆の連帯をつくり出すことであり、このことが地域の平和に寄与するはずだ」と述べたことだ。このことは、私も今回の社会フォーラムが今後に繋げて達成すべき重要な課題の一つだろうと感じてい
た。
▽東アジアフォーラムを考える
東アジアでも社会フォーラムができないだろうか、という期待や意見をたびたび聞く。私もそう思う。 しかし、その前提は、東アジアの民衆が、政府の思惑とは別に一同に会することが可能な枠組を作れなければならない。
南北朝鮮、中国、台湾、極東ロシアだけをみても、私たちはまだ多国間の民衆相互の連携が必ずしも十分にはできていないのではないだろうか。
インドとパキスタンは国家の間でも一般民衆の感情からも敵対意識は強いが、しかしまた同時に社会フォーラムに参加している人々は非常にはっきりと両国の民衆の連帯の必要に関して切実な思いをもっていることを改めて強く感じた。
(写真・文:小倉 利丸)
「私たちの生活は売り物じゃない」 ――世界女性法廷がアピール 宗教原理主義、性的暴力に抗議
「私たちの生活と生命は500年に及ぶグローバル化の中で商品化されてきた。われわれの生活、生命は売り物ではない」
3月26日、WSFカラチで開かれた「戦争とグローバリゼーションに反対する世界女性法廷」(World Court of Women on Resistance to Wars, Wars of Globalisation Wars Against Women ) で、ケニヤのワーフ・カーラさん(Wahu Kaara)は、こう訴えた。
「法廷」を主催したのは、アジア女性人権会議(Asian Women's Human Rights Council)。グローバル化と戦争による女性に対する人権侵害や暴力を告発するいわゆる民衆法廷の一つで、今年はカラカスとバマコで開催され、今回が三回目。炎天下のテントの中、午前11時前に始まり、昼食抜きで午後4時まで、気温が高く大変な環境の中で、熱心な討議が行われた。
▽500年のグローバル化で商品化
主催者の挨拶の後、発言したのは、WSFバマコにも参加したカーラさん。今回は陪審員役だったが、カーラさんは、500年に及ぶグローバル化の中で商品化される生命、生活(life)に対抗して、生活経済(
life economy)の大切さを強調した。「『私たちの生活、生命は売り物ではない』という主張は、グローバル化のなかで一貫して民衆によって主張されてきたグローバル化のもう一つの側面だ」と主張した。
とくにこの集会で目立っていたのは、インドやパキスタンからの証言。宗教原理主義の台頭、カースト制度による差別と暴力、男性による家庭内だけでなく公共の場での(性的)暴力の問題などは、一向に解決のきざしがなく、非常に深刻だ。 なかでも印象深かったのは、アフガニスタン女性革命協会(RAWA)の女性が証言者として発言し、タリバンや北部同盟による女性に対する暴力と人権侵害を訴え、世界社会フォーラムがこうした原理主義に対抗していく上で、非常に重要な位置を占めていることを強調したことだった。
▽女性の方がひどいアルグレイブの虐待
また、パレスチナから参加した女性は、イスラエルによる経済封鎖や弾圧によってパレスチナの状況は非常に悪化していることを報告した。 イラクから参加した女性の証言はもっとも衝撃的だった。悪名高いアブグレイブの刑務所での 拷問問題は、男性囚人への拷問だけが報じられているが、実は女性のイラク人囚人への暴力はもっとひどいものだという。
14歳の女性が親や兵士などの前で強姦されたり、またファルージャなどでは、ドリルで頭部に穴をあけられて目をえぐられるなどの米軍の暴力があるといったなまなましい状況が報告された。 イラクでは高等教育を受けていた女性たちが拉致されるなどの暴力を受けているとも証言された。
▽日本の基地問題も証言
この証言の最後に、なぜか日本からの参加者ということで、突然私に「話してほしい」といわれて、米軍基地問題を簡単に話した。しかし、南アジアの深刻な暴力の前に、どのように話せば説得力のあることが話せるのか、言葉がうまくでなかった。
集会の後、「喪中の女性たち(Women in Black)」のデモに合流
した。会場のメインストリートの両側でプラカードを掲げて、一列に並ぶ。
このあと、夜にもキャンドルデモがあったはずで、そこにも誘われたが、昼の暑さでバテてキャンセルした。
(おぐら・としまる、写真は「世界女性法廷」のオープニングと、「喪中の女性たち」のデモンストレーション)
Monday, March 27, 2006
GCAP報告集会報告
28日14時から、世界社会フォーラム2006カラチ会場で、GCAP(Global Call Against Poverty)の報告会が開かれた。GCAPでは各地の地元NGOなどがアライアンスを組んで国連のミレニアム開発目標(MDGs)を達成するために活動している。今回は、劇的な経済発展の一方、多くの貧困層を抱えている南アジア地域各国と、開発に対する大きな困難を抱えたアフガニスタンから報告者が、ホワイトバンドをつけて登壇した。出入りが多かったので実数は定かではないが、参加者は常時30人程度、のべ60人ぐらいであると思われ、決して多数ではないが、質疑は活発に行われた。
報告は、昨年世界中で行われたキャンペーンの概要を説明するとともに、各国アライアンスの体制についてや、その中でのMDGsに関連した試みが行われた。例えばインドなどでは、開発NGOだけではなく、労組や研究期間を含む極めて多様な団体による連合体制が組まれている一方で、MDGsがジェンダーやリプロダクティヴ・ヘルスの視点に弱いという批判から、多くの女性団体が参加を保留しているという(実際、連合の代表として登壇した人々もほぼ全員がその国の中高年男性であることに違和感を感じなくはない)。また、これまで数多くの貧困撲滅に関する国際的な宣言が行われたが、殆どがかけ声のみに終わったのに対して、MDGsとGCAPは、各地で十分とは言えないまでも着実な進展を見せているという事実が強調された。
また、会場からは、MDGsが具体性を欠くので、もっと個別で具体的な目標を各自で設定していく必要があるという指摘や、そもそもMDGsが先進国が勝手に決めたものではないのかという疑念などが呈された。後者に関しては、講演者から、MDGsは中間目標にすぎず、GCAPは「MDGsプラス」を目指すものであるという応答があった。また、閉会後も会場には各国からの代表が残り、それぞれの状況について活発な情報交換を行っている姿が見られた。
報告は、昨年世界中で行われたキャンペーンの概要を説明するとともに、各国アライアンスの体制についてや、その中でのMDGsに関連した試みが行われた。例えばインドなどでは、開発NGOだけではなく、労組や研究期間を含む極めて多様な団体による連合体制が組まれている一方で、MDGsがジェンダーやリプロダクティヴ・ヘルスの視点に弱いという批判から、多くの女性団体が参加を保留しているという(実際、連合の代表として登壇した人々もほぼ全員がその国の中高年男性であることに違和感を感じなくはない)。また、これまで数多くの貧困撲滅に関する国際的な宣言が行われたが、殆どがかけ声のみに終わったのに対して、MDGsとGCAPは、各地で十分とは言えないまでも着実な進展を見せているという事実が強調された。
また、会場からは、MDGsが具体性を欠くので、もっと個別で具体的な目標を各自で設定していく必要があるという指摘や、そもそもMDGsが先進国が勝手に決めたものではないのかという疑念などが呈された。後者に関しては、講演者から、MDGsは中間目標にすぎず、GCAPは「MDGsプラス」を目指すものであるという応答があった。また、閉会後も会場には各国からの代表が残り、それぞれの状況について活発な情報交換を行っている姿が見られた。
日本の反戦運動に対する関心
WSF 3日目の26日は、Action Aid Pakistan主催のYouth and Politics: The Role of Students Movement という企画に参加した。パキスタン、インド、ネパール、バングラデシュなどからの参加者がほとんどで、南アジア以外からの参加者は日本人のぼくとヨーロッパから来た若者の2人だけだった。南アジアの言語で話す人が非常に多く、前半はあまり理解できなかったのだが、ヨーロッパの青年が英語で発言した後は、英語での発言が多くなった。
前半部分は、各国からの参加者が自国での学生による運動の紹介や問題点の指摘などをしていたようなのだが、途中から(誰かの発言を境にだと思うのだが)、イラク反戦運動の話になり、フランスの青年が持っていた写真集がきっかけでぼくも発言することになってしまった。その写真集は世界中の各都市でのデモの様子を見開きに集めたものなのだが、その中に日本の都市が入っていなかったらしく(実際には東京は含まれている気がするのだが)、「なぜ日本では反戦運動が起きないのか?」といった質問をされた。
今回のWSFに一緒に参加している小倉利丸さんからもらった、3・18WORLD PEACE NOW(WPN) の写真付きの英語の呼びかけ文を持っていたので、スライドに写して、日本でもイラク反戦運動が起こっていることを説明した。各国の都市に比べれば小規模だが、日本の反戦デモの中では特に開戦前後はかなり盛り上がったのだ、ということを簡単に話した。
日本がイラクに自衛隊を派遣しているということが多くの国で知られている一方で、日本の反戦運動については海外(日本でも)で報道されることはほとんどないようなので、WPNについて簡単にではあるが紹介できたことは良かったと思う。(そんぴゅん)
前半部分は、各国からの参加者が自国での学生による運動の紹介や問題点の指摘などをしていたようなのだが、途中から(誰かの発言を境にだと思うのだが)、イラク反戦運動の話になり、フランスの青年が持っていた写真集がきっかけでぼくも発言することになってしまった。その写真集は世界中の各都市でのデモの様子を見開きに集めたものなのだが、その中に日本の都市が入っていなかったらしく(実際には東京は含まれている気がするのだが)、「なぜ日本では反戦運動が起きないのか?」といった質問をされた。
今回のWSFに一緒に参加している小倉利丸さんからもらった、3・18WORLD PEACE NOW(WPN) の写真付きの英語の呼びかけ文を持っていたので、スライドに写して、日本でもイラク反戦運動が起こっていることを説明した。各国の都市に比べれば小規模だが、日本の反戦デモの中では特に開戦前後はかなり盛り上がったのだ、ということを簡単に話した。
日本がイラクに自衛隊を派遣しているということが多くの国で知られている一方で、日本の反戦運動については海外(日本でも)で報道されることはほとんどないようなので、WPNについて簡単にではあるが紹介できたことは良かったと思う。(そんぴゅん)